南蛮人とは~意味と由来と南蛮の解説~

南蛮 言葉

南蛮人(なんばんじん)とは南蛮の人のことです。日本では室町時代から江戸時代に至る間、おもにポルトガル人やスペイン人などを南蛮人と呼びました。

日本では古くは奄美大島から東南アジアにかけての地域を「南蛮」と呼び、史書「日本紀略(997年)」では「南蛮」は「奄美人」を指しています。

室町時代に東南アジアを経由して、ポルトガル人やスペイン人が渡来するようになり、南蛮から来た人ということから、彼らを南蛮人と呼ぶようになります。

ちなみに、江戸で品川を「南蛮」と呼んでいましたが、品川の人を「南蛮人」とは呼ばなかったようです。

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南蛮人の意味と由来

日本では、古くは奄美大島から東南アジアにかけての地域の人を南蛮人(南蛮)と呼び、室町時代後期にはキリスト教の伝導に渡来したポルトガル人やスペイン人などを南蛮人と呼び、その後日本と貿易をしていた西洋人を南蛮人と呼ぶようになりました。

南蛮人とは、南蛮の人のことです。

日本では古くは、奄美大島から東南アジアにかけての地域やその地域の諸民族を「南蛮」と呼んでいました。

史書「日本紀略(997年)」に、南蛮という語が記されいますが、これは「奄美人」をさしています。

室町時代になり、スペイン人やポルトガル人がキリスト教の伝導のために日本に渡来するようになると、彼ら宣教師をバテレンと呼び、ポルトガル人やスペイン人を総称して「南蛮人」と呼びます。

時に南蛮人はキリシタンと同じ意に用いられ、オランダ人は紅毛人(こうもうじん)と呼ばれていましたが、いつしか特に区別することなく西洋人を「南蛮人」と呼ぶようになります。

ポルトガル人やスペイン人などの西洋人を「南蛮人」と呼んでいたのは、当時の日本で東南アジアの地域を「南蛮」と呼んでいたことに由来します。

キリスト教の伝導や貿易を目的に渡来する西洋人は、東南アジアを経由して日本に来ました。

東南アジア(南蛮)から来た人ということで、西洋人を南蛮人と呼んでいました。

南蛮とは

古く中国では、中央政府の治政の及ばない北方異民族を「北狄(ほくてき)」、南方異民族を「南蛮(なんばん)」、東部および東南部の異民族を「東夷(とうい)」、西方異民族を「西戎(せいじゅう)」と呼んでいました。

もともと南蛮(なんばん)とは、中国の華夷(かい)思想にもとずく、南方民族に対する蔑称(べっしょう)です。

日本では古くは、奄美大島から東南アジアにかけての地域やその地域の諸民族を「南蛮」と呼んでいました。

室町時代から江戸時代には、西洋を総称して「南蛮」と呼んでいました。西洋から渡来した文物や品物は「南蛮」と呼ばれ、西洋人は「南蛮人」と呼ばれていました。

江戸時代の江戸では江戸から見た位置から、品川を「南蛮」、深川を「東夷」、吉原を「北狄」と呼びました。

現在は、異国から渡来した物や異国風の物、唐辛子やネギのことを「南蛮」と言います。

異国の文物に目がない人は「南蛮かぶれ」と呼ばれ、鴨肉とネギが入った”そば”は「鴨南蛮」、魚などを油であげネギや唐辛子と一緒に酢漬けした料理は「南蛮漬け」、桃山時代前後に渡来した西洋画は「南蛮絵」と呼ばれています。

まとめ

もともと南蛮とは、南方民族に対する蔑称で、良い意味で使われる語ではありません。

室町時代から江戸時代においての日本で、当初ポルトガル人やスペイン人などのキリスト教徒を「南蛮人」と呼んだほとんどの人は、彼らを軽蔑し卑しめて呼んでいました。

南蛮人との貿易が盛んになり、日本に多くの異国の文物や品物が伝来すると、「南蛮人」を卑しめて呼ぶ人は少なくなります。

現在は、西洋人を南蛮人と呼ぶ人はいませんが、当時の南蛮人が日本にもたらした文物は数多く残っています。

南蛮医学(室町時代末期~江戸初期):外科を主として伝えたため南蛮流外科ともいわれる。その伝統はのちのオランダ医学に伝える。

南蛮学(戦国時代~江戸初期)):医学・天文学・自然科学・印刷術・画法など西洋の学術。蛮学ともいわれる。

南蛮菓子(室町時代~):ビスケット(ビスカウト)・カステラ・こんぺいとう(コンペイト)・カルメラ(カルメル)・がんもどき(ヒリョウス)・パンなど

他多数

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