「水清ければ魚棲まず(みずきよければうおすまず)」と「水清ければ月宿る(みずきよければつきやどる)」よく似ている二つの『ことわざ』。
「水清ければ」までは全く同じ。
ですが、あとに続く語句で意味が全く違ってきます。
「水清ければ魚棲まず」の意味は、
あまりに(度を超して)清廉潔白(せいれんけっぱく)・厳格(げんかく)な人は、人から好かれず孤立ししまうというたとえ。
「水清ければ月宿る」の意味は、
心が清く迷いや汚れがない人には、神仏の加護(かご)があるということ。
それぞれの『ことわざ』の解説と、水と魚を使ったことわざを紹介します。
解説
水清ければ魚棲まず
意味:あまりに(度を超して)清廉潔白(せいれんけっぱく)・厳格(げんかく)な人は、人から好かれず孤立ししまうというたとえ。
「孔子家語(こうしけご)」という、孔子の言行、逸話(いつわ)を集めた中国の書の一節から生まれたことわざ。
原文は
「水至りて清ければ即(すなわ)ち魚なく、人至りて察(さつ)なければ則(すなわ)ち徒(と)無し」
意味は
水があまりに清らかすぎると魚が住まないし、人があまりに潔白・厳格であると仲間がいない。
*清廉潔白・厳格なのは良いけれど、度を越していっさいを許さないと人が寄り付かなくなり孤立するということ。
水清ければ月宿る
意味:心が清く迷いや汚れがない人には、神仏の加護(かご)があるということ。
”凪(なぎ)で、清く澄んだ水面に綺麗な月がうつる様子”から生まれたことわざ。
*心おだやかに、心清く汚れなく日々をすごすと幸せを感じられるということ。
水と魚を使った『ことわざ』
水魚の交わり
すいぎょのまじわり
「水と魚(みずとうお)」と同じ
意味 : きわめて親密な交わり(関係)のたとえ
中国(三国時代)の書「三国志」・蜀志(しょくし)・諸葛亮伝(しょかつりょうでん)から生まれたことわざ。
劉備(りゅうび)が諸葛孔明と親しくするのをみて、張飛(ちょうひ)と関羽(かんう)はおもしろく思わなかった。
そこで劉備が、二人に
「私にとって孔明が必要なのは、ちょうど魚にとって水が欠くことのできないものであるのと同じである」
と説明した。
*魚が水なしでは生きられないように、離れることのできない非常に親密な関係をいう。
水心あれば魚心
みずごころあればうおごころ
「魚心あれば水心」ともいう。
意味:相手が好意を示せば、こちらも好意を示そうということ。
本来は、「魚、心あれば、水、心あり」
そちらに魚になる心があるのなら、こちらはあなたが住みよい水になる心をもってよい。
*何事も、相手の出方次第でこちらの出方も変わってくるということ。
水積もりて魚聚まる
みずつもりてうおあつまる
意味:利益のあるところに人が集まるということ。
中国(漢時代)の哲学書「淮南子(えなんじ)」説山訓からうまれたことわざ。
水量が豊かになるところに魚が集まるように、利益のあるところに人が集まるということ。
*幸福・恵・とくのあるところには、人があつまるということ。
水を得た魚のよう
みずをえたうおのよう
意味:得意な分野を手に入れて、生き生きとするようすのたとえ。
*自分の力をおもうぞんぶん発揮できる得意な分野で、今までとは別人のような活躍をするようす。
まとめ
ことわざには教訓になるものが多くあります。
「水清ければ魚棲まず」・「水清ければ月宿る」も、そういう『ことわざ』。
水清ければ魚棲まずは、人との「接し方」、「世渡り」の教訓。
水清ければ月宿るは、「心のもちよう」の教訓。
よく似た『ことわざ』でも、意味が全く違うので、使い方を間違えないように。
余談ですが
「水を得た魚のよう」ということわざをよく耳にしますが、そのほとんどは「みずをえたさかなのよう」ではありませんか?
正しくは、魚は「うお」らしいのですが、「さかな」でも間違えとはいえないようです。