今では赤面してしまう!?昭和50年代の若者のファッション【服装編】

昭和50年代の服装 話題

昭和50年代前期、海外でセックス・ピストルズがデビューし、日本でピンク・レディーがデビュー、パンク・ファッションが台頭し、ニュートラやハマトラが流行します。

昭和50年代中期、竹の子族が代々木公園で全盛期をむかえ、松田聖子、横浜銀蝿がデビュー、つっぱりファッションが台頭し、フリル付きブラウスが流行します。

昭和50年代後期、東京ディズニーランドが開園し、一世風靡セピアがデビュー、ハウスマヌカンが女性ファッション誌に登場、DCブランドが流行します。

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パンク・ファッション

昭和50年(1975年)、ロンドンでセックス・ピストルズがライブデビューします。

昭和52年(1977年)、セックス・ピストルズ唯一のスタジオ・アルバム『Never Mind the Bollocks,Here’s the Sex Pistols(勝手にしやがれ!!)』が発売されると、日本でも彼らのファッションをまねたいわゆパンク・ファッションが台頭します。

パンク・ファッションの特徴は、鋲を打った革ジャン、引き裂かれたTシャツ、引き裂かれたジーンズ、安全ピンなどによる装飾、厚底シューズなどで、当時としてはかなり過激な服飾でした。

ニュートラ

ニュートラとはニュー・トラディショナルの略で、昭和50年(1975年)ころ、女性誌『anan』が提唱した、神戸のお嬢様的なファッションスタイルです。

トラッド(伝統的)なアイテムのワンピース・ジャケット・カーディガンで基本コーデをつくり、どこのブランドかひと目で分かる、海外の有名ブランドのバッグや靴などを合わせるのが、ニュートラのスタイルでした。

ニュートラは昭和50年代中期に、全国的に流行します。

ハマトラ

ハマトラとは、横浜元町が発祥で、昭和51年(1976年)ころ、女性誌『JJ』が提唱した、横浜のお嬢様的なファッションスタイルです。

ポロシャツ・ベストorカーデガン・タータンチェックの巻きスカート・ハイソックス・パンプスが基本コーデ。横浜元町に店舗を構える、フクゾーの洋服・ミハマの靴・キタムラのバッグはハマトラの「三種の神器」と呼ばれていました。

昭和50年代中期に、全国的に流行します。

つっぱり(ヤンキー)・ファッション

昭和50年代中期(1980年)ころの若い男性ファッションの代表格といえば、つっぱり(ヤンキー)・ファッション。

赤、青、緑のカーディガン・白いハイネック・タック付きのパンツ・エナメルの靴が基本コーデその1。アロハor開襟シャツ・ドカンと呼ばれた幅広パンツ・エナメルの靴が基本コーデその2。学制服は、長ランor短ラン・Tシャツ・ボンタンが主流の基本コーデでした。

昭和55年(1980年)に『横浜銀蝿』がデビュー、つっぱり(ヤンキー)・ファッションが全国的に流行します。ちなみに女子のつっぱり(ヤンキー)はピン子と呼ばれてました。

今では赤面してしまう!?昭和50年代の若者のファッション【髪形編】
歴史が始まる前から、人類は髪形にこだわり、髪形を整えていました。髪形は、時代の変化、生活様式の変化とともに、変化し進化しています。 日本の理・美容組合(各連合会)が、昭和39年(1964年)にCIC(世界・理美容連盟)に加入し、日本人の髪形...

フリル付きブラウス

昭和50年代中期(1980年代初頭)ころ、当時の人気アイドル、松田聖子や松本伊代などの影響もあって、フリルのついたブラウスが流行しました。

当時は、『PINK HOUSE』に類似したフリル付きのブラウスやワンピースが安価で販売され、フリル付きブラウスは全国的に流行します。

一時期は全国のほとんどの女子がもっていたマストアイテムでした。

カラス族

昭和57年(1982年)、『ヨウジ・ヤマモト』と『コム・デ・ギャルソン(川久保玲)』がパリコレクションにデビューしました。

彼らのスタイルは、色彩がダーク(黒)・素材は古着のようなシワシワで穴のあいたものや加工したもの・オーバーサイズが基本でした。このパリコレクションの後、「黒」を前面に打ち出すファッションが世界的に流行します。

日本でも、「黒」を前面に打ち出すファッションが流行し、全身「黒」ずくめのファッションをした人を『カラス族』と呼びました。

DCブランド

DCブランドとは、国産デザイナーズブランド及びキャラクターズブランドです。デザイナーズブランドは、デザイナー主導のアパレルブランド。キャラクターズブランドは、企業が一定のコンセプトを持って主導するアパレルブランド。

流行当初、『路面店』や『PARCO』に限らていた販売の場が、多くのデパートにテナントとして拡張していきました。DCブランドのショップ販売店は、『ハウスマヌカン』と呼ばれ、当時、人気の職種となりました。

DCブランドは、ブランドによって個性的で多様なファッションが展開され、昭和58年(1983年)ころに、DCブランドブームは全盛期を迎えます。

プロデューサー巻き

昭和58年(1983年)ころから、男性に流行したファッションスタイルです。

プロデューサー巻きとは、ニットのカーデガンやセーターを、肩にかけたり、腰に巻いたりするコーディネートです。

当時は、夏の暑い時期でも、半袖のポロシャツに、プロデューサー巻きをしている若者がいました。

ズートスーツ

ズートスーツとは、1940年代にアメリカで流行したスーツです。極端にだぶついたスーツで、黒人ミュージシャンやマフィアが着ていたスーツが源(みなもと)と言われています。

ズートスーツは、上着はたっぷりと長く、スラックスは裾口(すそぐち)が細くなった、スタイルのスーツです。

日本では、昭和59年(1984年)にデビューした『一世風靡セピア』の影響もあって、昭和50年代末期から全国的に流行します。

昭和50年代に北海道で流行っていた若者言葉
「なまら」「したっけ」「こく」「がっぱり」「とんしゃ」「もや」「ぱくった」「おっつい」「しゃみ」等、昭和50年代、北海道の若者は独特の流行語を話していました。 「こく」は「濃厚な旨み」ではなく、「とんしゃ」は「豚の畜舎」ではなく、「もや」は...

まとめ

白黒テレビ放送が廃止(昭和52年)。第1次ディスコブーム(昭和53年)。インベーダーゲームが大流行(昭和54年)。第2次ディスコブーム(昭和57年)。東京ディズニーランドが開園(昭和58年)。

いろいろ変化のあった昭和50年代に流行していたファッションは、とても個性的で、今では赤面してしまうようなファッションもあります。

ファッションの流行は、時代とともに変化し、流行は繰り返されます。

昭和57年(1982年)大阪で1号店をオープンさせたマハラジャ(ディスコ)は、昭和59年(1984年)12月に「MHARAJA TOKYO」を東京都港区麻布十番にオープンします。

「MAHARAJA」には、ドレスコードがあったため、つっぱり・ファッションの男性は入店できず、つっぱり・ファッションの男性はこのころから姿を消していきます。

流行は繰り返されますが、昭和50年代中期に流行したつっぱり・ファッションだけは、二度と流行しない気がします・・・。

ファッションに興味がなく、センスがなくても、時代が変わっても、誰からも嫌われない、誰からも笑われないファッションスタイルもあります。

清潔な白いTシャツ・清潔なジーパン・清潔なスニーカーを基本コーデにし、余計な物を一切身につけない。このスタイルなら、時代が変わっても、異性に嫌われることは、決してありません。と思います。

平成のヤンキーファッション「腰パン」が流行した理由と起源
腰パンは、日本で1990年代から2010年頃に一世を風靡(ふうび)した若者のファッションで、おもにジーンズや学生服などのパンツ(ズボン)の着こなしを指します。 オーバーサイズのズボンを腰の位置までさげて、裾をダブつかせる着こなしが腰パンです...
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