伊能忠敬(いのうただたか)は、実際に日本全国の沿岸と主要な街道を歩いて測量して日本地図を作りました。
2018年は、伊能忠敬、没後200年の節目の年です。
伊能忠敬は1745年2月11日、上総国(かずさのくに)小関村(こぜきむら・現在の千葉県九十九里町)で生まれ、1818年5月17日八丁堀(現在の東京都中央区)の地図御用所で73歳の生涯を閉じました。
未完だった地図は、伊能忠敬の喪を秘して、下役や門人の手によって完成に至り、『大日本沿海輿地全図(だいにっぽんえんかいよちぜんず)』は1821年8月7日に幕府に提出されます。
子供のころの忠敬
伊能忠敬は旧暦・延享2年1月11日(1745年2月11日)に、上総国小関村(現在の千葉県九十九里町)で、名主・小関五郎左衛門家の当主・小関貞恒の第3子として生まれました。幼名は三治郎、兄と姉がいました。
6歳の時に母が病死します。婿入りしていた父は兄と姉を連れて実家に帰り、幼い三治郎だけが小関家に残されます。
このころの三治郎の記録は残っていません。「漁師が使う網や樽を記録して管理していたほど賢い子供だった」という逸話は想像にすぎません。
10歳のとき父が迎えにきて、17歳まで常陸(ひたち・現在の茨城県北東部)で、父と暮らします。
「幕府の役人が家に泊まって計算してるのを見てすぐに理解した」「土木工事の指図をさせたら、人使いがとても上手だった」という逸話があるが、こちらも想像にすぎません。
お寺に住み込んで計算を習ったり、医者宅に住み込んで医術を習ったり、していたことから想像した逸話だと思われますが、目はしが効く若者だったことは間違いなかったようです。
子供のころの記録は残っていませんが、伊能忠敬が佐原で暮らすようになってからは、膨大な記録が残っています。
隠居した時の家産は3万両
17歳の時、親戚の平山家の養子となって「忠敬(ただたか)」と名乗り、下総国(しもうさのくに)佐原(現在の千葉県香取市)の酒造家・伊能三郎右衛門家に入婿します。妻は達(みち)21歳。
家業は隆盛を極め、忠敬は佐原の名主(なぬし)となります。
名主時代の忠敬の偉業は、天明の飢饉で佐原から一人の餓死者も出さなかったことです。忠敬夫妻は、天明の飢饉の最中、飢えている人には食料をあたえ、病人には薬を用意するなどして、村人を助けました。忠敬38歳のとき、忠敬夫妻の飢饉への対応が評価され、苗字帯刀を許されました。
1782年から1787年にかけての天明の飢饉では、関東地方を中心に多くの人が犠牲となり。餓死者・病死者は全国で90万人を超えました。伊能忠敬一人の功績ではありませんが、佐原から一人の餓死者も出さなかったことは、伊能忠敬の偉業を語るうえで外せないエピソードの一つです。
天明の飢饉を経験した伊能忠敬は、飢饉を予知し、飢饉のない世をつくるため、天文・暦学を学ぼうと決意します。
49歳になると、伊能忠敬は商売などのことを長男の景隆にまかせ、隠居します。
49歳で隠居した時、伊能忠敬の家産は3万両あったと伝えられています。江戸時代の1両=現在の13万円(参考:man@bow 運営:野村ホールディングス・日本経済新聞社)とすると、現在のお金で39億円の家産があったことになります。
伊能家の業績を記した『金鏡類録(伊能景敬編)』の中に、村人の噂として「家産3万両」という金額が載っています。
49歳で隠居した伊能忠敬は、50歳のとき江戸に出て、新進の天文学者・高橋至時(たかはしよしとき)に入門します。
人と話すこともないくらいに天体や暦学に没頭する忠敬は、師匠の至時や仲間から「推歩(すいほ)先生」と呼ばれていました〔推歩:天体の運行を測ること〕。
その頃の忠敬は、地球の形や大きさを知りたいと、思っていました。そのために忠敬が初めて歩測で測量したのは、深川黒江町の住まいから浅草の暦局の間でした。その測量結果を報告した師匠・至時から「地球の大きさを知るにはもっと長い距離を測る必要がある」と助言されたようで、それを切っ掛けに蝦夷地(現在の北海道)の測量を始めます。
地図作りの目的は地球の大きさを知ること?
地球の大きさを知るためには、子午線の1度(経線の1度の距離に360を掛けて地球の大きさを知る)の長さを知る必要がありました。正確な子午線の1度を知るためには、出来るだけ長い距離を測量する必要がありましたが、「子午線の1度を測る」目的での測量は幕府に許可されませんでした。
そこで目的を「蝦夷地(現在の北海道)の正確な地図を作るため」とし幕府から測量の許可を得ます。
1800年・伊能忠敬が55歳のとき、江戸から蝦夷地(北海道)までの測量.蝦夷地の測量から地図作りは始まり、1816年・江戸府内の測量で幕をおろします。
伊能忠敬研究会は、2001年に米国で見つかった最終版の写と、日本の国立公文書館が所蔵する地図を比較し、「北海道は間宮林蔵が全て測量し、その結果を地図に反映させた可能性がある」としています。伊能忠敬の日記には「最初に測量した蝦夷地の結果には自信がない」と記されており、伊能忠敬が測量したとされていた北海道南部の海岸線が数キロ程度ずれていたことから、間宮林蔵に再測量を依頼したと思われます。
蝦夷地から戻ったあとは、本州の東海岸の測量、出羽(現在の山形県・秋田県)から日本海沿岸、東海道・北陸沿岸と測量し、1804年(文化元年)に東日本の図『東日本沿海全図』が完成します。
1805年(文化3年)からは幕府の役人として西日本の測量を開始、四国、九州と測量し、1816年(文化13年)最後に江戸府内の測量をし、16年間におよぶ測量の旅を終えます。
地球の大きさを知るための口実で始めた蝦夷地の測量、忠敬の本意ではなかった地図の作成ですが、忠敬はけっして手を抜きませんでした。
忠敬の死後、下役や門人によって1821年に完成した『大日本沿海輿地全図』は、現在の地図と比べても、違いが0.2%しかありません。
蝦夷地測量のころは、1歩の歩幅が69cmになるように訓練し、自らの歩幅で距離を測っていましたが、本州の測量からは専用の縄(間縄・けんなわ)や鉄のくさり(鉄鎖・てつさ)を使用し、より正確な測量を行いました。
忠敬は地図作りの間に、子午線1度の長さを導きだすことに成功しています。忠敬が導き出した子午線1度の長さは、28里2分(110.85Km)で、現在の長さ(110.98Km)と130mの差しかありません。
伊能忠敬がのこした名言
「後世の役に立つような、しっかりとした仕事がしたい」
「人間は夢をもち前へ歩き続ける限り、余生はいらない」
「天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ありません。いずれも自然天命であります」
天明の飢饉を体験した伊能忠敬は、天体や暦学を学ぶことで、自然災害を予測して災害の対策に役立てようと考えていました。
飢饉のない世をつくることが、忠敬の大きな夢でした。
「歩け、歩け。続けることの大切さ」
忠敬の1歩の歩幅は69Cmでした。忠敬が全国を測量した距離は、地球を一周するのとほぼ同じで、歩数にすると約5千万歩にもなります。
「歯はほとんど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることができない」
「願望は寝ても覚めても忘れるな。泥棒でも、敵をやっつけるのも、美女を手に入れるのも、そう願う心をどんなに状況が変化しようが、一時も忘れずに心がけていれば、かならず成し遂げられる」
伊能忠敬測量日記第4巻には、1801年8月28日(享和元年7月20日)伊能忠敬病気と記してあり、その後の日記にも忠敬病気という記載が多々あります。
病気になっても、途中でなげだすことなく測量の旅を続けたのは、忠敬に大きな夢(願望)があったからです。
まとめ
6歳の時に母親が亡くなり、10歳まで一人母の実家に残され、17歳で佐原の伊能三郎右衛門家に入婿し、天明の飢饉での行いが評価され苗字帯刀を許された伊能忠敬。
隠居するまでに家産3万両を残し、自然災害を予測し飢餓のない世をつくるため、50歳のとき江戸にでて天文・暦学を学びます。
1800年、55歳の時に蝦夷地の測量をし、その後、東日本の測量をし『東日本沿海全図』を完成させ、幕府の役人となり西日本・四国・九州の測量をし、1816年、71歳の時に江戸府内の測量をし、日本全国の測量を終えます。
1818年5月17日、地図の完成を見ることなく、八丁堀の地図御用所で、73歳の生涯を閉じました。
未完だった地図は、下役や門人によって完成に至り、『大日本沿海輿地全図』は1821年8月7日に幕府に提出されます。
伊能忠敬が、55歳から測量で歩いた距離は、およそ地球を一周するのと同じです。
江戸時代の将軍の平均寿命は51歳。日本人の平均寿命が50歳を超えたのは、1947年(昭和22年)です。
当時としては、かなり長生きした伊能忠敬。長生きするには、歩くこと、いくつになっても夢を追い続けることが大切なのかも知れません。
「歩け。歩け。続けることの大切さ」