霞が関ビルの歴史とまつわるエピソード

霞が関ビル 話題

霞ヶ関ビルディング(通称・霞ヶ関ビル)は1968年(昭和43年)に完成した、日本で最初の超高層ビルです。

霞ヶ関ビルは、戦後日本の経済復興を象徴する金字塔でした。

地上36階高さ147メートルの霞ヶ関ビルは、特撮怪獣映画に出てくるほど、日本中から注目されました。

霞ヶ関ビルは1989年(平成元年)から6年をかけて大規模改修を実施し、2009年(平成21年)には低層部をリニューアル、現在も多くのビジネスマンや商業施設を利用する人で賑わっています。

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計画から起工まで

霞ヶ関ビルディングは、三井不動産が手がけた日本初の超高層ビルで、建設のコンセプトは「大都市における人間性の回復」でした。

1960年(昭和35年)に霞ヶ関ビルの建築計画は開始されます。当初は「東京倶楽部ビル」の建て替えで、31mの高さ制限を前提に、9階建のビルを建てる計画でした。その後、隣接する「霞会館(華族会館)」と合わせて、建設予定地は約16,000㎡になります。

1961年(昭和36年)の特定街区制度創設、1963年(昭和38年)の容積地区制度を経て、高さ制限に関する法律が撤廃され、超高層ビル建設への機運は一気に高まります。

地震や台風の多い日本は、たびたび被災し、その都度多くの犠牲を出しました。

関東大震災で強化された「市街地建築物法」により、全ての建物の高さは100尺(31m)以下と決められ、その高さ規定は1950年(昭和25年)に制定された建築基準法にそのまま引き継がれました。

1964年(昭和39年)、東京オリンピックまでの新ビル竣工を望む東京倶楽部のため、先行して「東京倶楽部ビルディング(地上6階・地下1階)」が完成します。〔現在の東京倶楽部ビルディングは、地上14階・地下1階〕

三井不動産は、1964年「特定特区」を申請し、同年8月26日「特定特区」の指定を受けます。

「特定特区」の指定を受けたことにより、高さ147m・地上36階・地下3階・敷地面積16,300㎡・延床面積約153,200㎡、超高層ビル「霞ヶ関ビル」の建設計画がまとまり、1965年(昭和40年)3月に起工されます。

起工から完成まで

霞ヶ関ビルの設計管理は三井不動産と山下寿郎設計事務所が共同で行い、施工は三井建設と鹿島(かじま)建設が共同で行いました

総工事費は当時の金額で約163億円。現在の金額で約326億円(企業物価指数は、昭和40年の2倍/日本銀行・公表資料:参考)

鹿島建設は、霞ヶ関ビルの建設に先立って、1963年(昭和38年)に東京大学を退官した武藤清(むとうきよし)教授を副社長として迎えます。

武藤教授は、高層ビルは『柔構造(じゅうこうぞう)』によってのみ可能になると証明していました。

霞ヶ関ビルができるまで、日本のビルは、地震に強い鉄筋コンクリートの柱と鉄筋コンクリートの壁をもつ『剛構造(ごうこうぞう)』でつくられていました。

『剛構造』のビルは、階を高くすればするほどコンクリートの重さがまし、地震や台風の多い日本では、10階建て以上のビルの建設は不可能とされていました。

関東大震災で廃墟となった東京において、上野・寛永寺の五重塔(高さ36m)は何事もなかったかのようにその姿を保っていました。五重塔は、塔の真ん中にたつ「心柱(しんばしら)」が、風にしなる柳のように地震の揺れを受け流し、心柱の周りに組まれた梁や屋根材が、地震の揺れの力を吸収していました。

上野・寛永寺の五重塔からヒントを得た武藤教授は、1963年(昭和38年)著書『耐震設計法』を発表し、鉄骨の柱と梁でビルの重量を支え、地震の振動を吸収する『柔構造』によってのみ高層ビルが可能になると証明しました。

霞ヶ関ビルは日本初の『柔構造』の超高層ビルです。

霞が関ビルの建設は、地震の揺れで割れないように初めから切れ目(スリット)を入れた耐震壁やアルミサッシ、自力でビルをのぼるタワークレーンなどの新しい素材や工法のすべてが開発・実験を行いながら進みました。

多くの知恵と努力と技術が結集された霞が関ビルは、1968年(昭和43年)4月にオープンします。

霞が関ビルのプロジェクトは、1969年『超高層のあけぼの』として映画化され、全国158の劇場で封切られました。

当時、鹿島守之助会長は、「霞が関ビルがいかにして造られたか、いかに多くの知恵と努力と技術がこのビルに結集されたか、それを多くの人に知ってもらいたかった」と、映画製作の動機を説明しています。

霞が関ビルの日本初

今では当たり前になっていることで、霞が関ビルが日本初のことは多くあります。

① ビルの敷地面積の7割を広場とし、部外者でも自由に入れる「公開空地」の考え方を日本で初めて導入しました。

② オフィスと商業施設が融合したビルのスタイルは日本初です。完成時は病院・郵便局なども入り、「ミクストユース」の概念も生まれました。

③ 最上階・36階の展望回廊「パノラマ36(現在は廃止)」。多い日には1日に1万人が来場しました。〔入場料は250円(当時の地下鉄初乗り運賃は30円)〕

④ 日本初の『柔構造』の超高層ビル。高さ147m・地上36階・地下3階

⑤ 霞が関ビル建設プロジェクトで誕生した特許は40件。スリットを入れた耐震壁・アルミサッシ・タワークレーン・防火設備・軽量コンクリート・高速エレベーターなど

特撮怪獣映画に映る霞が関ビル

高度経済成長を経て先進国に生まれ変わる日本の象徴『霞が関ビル』は、日本の未来を舞台にした特撮怪獣映画や特撮テレビ番組「ウルトラマン」などに、何度も出てきます

① 『怪獣総進撃』:1968年(昭和43年)8月1日に封切り公開された、ゴジラシリーズの第9作『怪獣総攻撃』に、霞が関ビルが映ります。映画の設定は1994年の近未来、霞が関ビルの周りには高層ビルがたち並んでいます。霞が関ビルはラドンが東京上空に出現する場面と、物語のクライマックスでファイアードラゴン(キアク星人の円盤)が霞が関ビルに激突するシーンで映ります。

② 『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』:1968年(昭和43年)3月20日に封切り公開された、ガメラシリーズの第4作『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』のポスターに霞が関ビルが描かれています。映画の本編では、出てきませんが、ポスターにはバイラスの頭が「霞が関ビル」に激突する様子が描かれています。

③ 『ウルトラマン』第35話:『ウルトラマン』は1996年(昭和41年)7月17日から1967年(昭和42年)4月9日の間放送された特撮テレビ番組です。1967年3月12日に放映された『ウルトラマン』第35話「怪獣墓場」では、亡霊怪獣シーボーズが建設中の「霞が関ビル」によじ登るシーンがあります。

上記3つは有名な霞が関ビルのシーンですが、この時期につくられた、他の映画やテレビ番組にも、霞ヶ関は映っています。

霞が関ビルは、建設中から世の注目を集め、子供向けの映画に出てくるほどに、明るい日本の未来を象徴するビルでした。

3度の改修工事から現在まで

建て替えたほうが安いのに、今まで3回の改修工事を行い、現在も「最先端のビル」として「日本最古の超高層ビル」は、その存在を誇示し続けています。

1度目は「リニューアル工事」で、1989年(平成元年)6月から1994年(平成6年)10月に行なわれました。

業務の多様化やテナント変更への対応、インテリジェント化・OA化、設備機能の信頼性向上に留意し、将来を見据えた改修を実施。(鹿島建設)

1994年度BELCA賞(ベストリフォーム部門)を受賞しています。

2度目は「外装塗装改修工事」で、1999年(平成11年)3月から2000年(平成12年)9月に行われました。

美観の確保と耐久性の向上、および将来的なメンテナンス費用の低減を目的として、既存アルミパネルの塗装による外装リニューアルを実施。(鹿島建設)

3度目は「低層部増築改修工事」で、2006年(平成18年)8月から2009年(平成21年)3月に行われました。

周辺の建て替えに合わせ、街区の中心に潤いと寛ぎの都市広場を一体的に整備しました。霞が関ビルの正面にオフィスエントランスを増築、広場を介し駅からスムーズな歩行者動線を確保。商業エリアの全面リニューアルでは、商業エントランス棟を増築し回遊性や賑わいを創出している。(鹿島建設)

まとめ

日本初の超高層ビル『霞が関ビル』は、2018年(平成30年)4月に開業50周年の節目を迎えます。

建築基準法の高さ制限・計画の変更・新素材の開発・日本初の工法など多くの苦難を乗り越え、『霞が関ビル』は1968年完成しました。

高さ147m・地上36階・地下3階の霞が関ビルは、戦後日本の経済復興を象徴する金字塔でした。

建て替えたほうが安いのに、そうせずに3度も改修工事をしているのは「末永く使える普遍的な設計が細部にまで突き詰められているから」で、「その外見もどんな時代にもマッチするデザインになっているから」です。

1968年(昭和43年)『霞が関ビル』は完成し、その後3度の改修工事を行い、現在も「最先端のビル」として「日本最古の超高層ビル」は、その存在を誇示し続けています。

〔現在の霞が関ビルは、地上37階・地下4階〕

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